1972年、田中角栄が首相に就任した時、日本は高度経済成長の頂点に立っていた。
国民は豊かさを享受し始め、次のステップとして「生活の質」を求めていた。田中が掲げた「日本列島改造論」と並ぶもう一つの柱、福祉政策の拡充は、まさに時代の要請に応えるものだった。1973年を「福祉元年」と位置づけ、老人医療費の無料化や年金の大幅増額など、大胆な政策を次々と打ち出した。しかし、これらの政策は、後の日本に重い財政負担を残し、一度動き出した福祉の車輪を止めることを困難にした。
なぜ、田中の福祉強化は「止められなくなった」のか。その背景には、彼の政治的ビジョン、当時の社会状況、そして政策の構造そのものが複雑に絡み合っていた。

田中のビジョン:国民のための政治か、人気取りか
「庶民宰相」と呼ばれた田中角栄は、新潟の貧しい農家出身から首相にまで上り詰めた。彼の政治は、インフラ整備や地方振興だけでなく、国民一人ひとりの生活を支える福祉にも力を注いだ。1972年の選挙で自民党が圧勝した背景には、「国民に還元する」という彼のメッセージが響いたことが大きい。特に高齢者向けの政策は、当時まだ少数だった高齢者層だけでなく、将来への安心を求める若者や中年層にも支持された。老人医療費無料化は、その象徴だ。田中は演説でこう語っている。「豊かになった日本で、誰もが医者にかかれないなんてことがあってはならない」。この言葉には、彼自身の貧困経験が投影されていたのかもしれない。
しかし、一方で批判もある。田中の福祉政策は、政治的な人気取りに過ぎなかったのではないか、と。実際、彼の政策は短期間で目に見える成果を上げ、支持率を押し上げた。だが、その裏で財政の持続性はあまり考慮されていなかった。当時の国民医療費は1972年度で約1.8兆円(厚生労働省「国民医療費の推移」より)だったが、老人医療費無料化の導入後、急増し始め、1980年度には約12.5兆円に達した。これに対し、2022年度の国民医療費は約44.2兆円(厚生労働省発表、最新概算値)で、50年間で約24倍に膨張している。田中は「金は使うためにある」と豪語したとも伝えられるが、その使い方が後の世代にツケを回す形になった。
当時の社会状況:成長と若さが生んだ楽観主義
田中が福祉を拡大できたのは、1970年代の日本が経済的に絶頂期にあったからだ。GDPは年々増え、失業率は低く、企業は利益を上げ続けていた。この富の余裕が、「国民に還元する」政策を可能にした。また、当時の人口構造も大きい。1970年代の日本はまだ「若い国」だった。高齢者比率は7%程度で、現在(2025年)の約30%とは比べ物にならない。つまり、福祉の恩恵を受ける層は少なく、支える労働力は豊富だった。この状況が、田中や当時の政策立案者に一種の楽観主義を与えたのだろう。1973年度の社会保障関係費は約2.5兆円(財務省「予算執行状況」より)だったが、経済成長を背景に「今、投資しても大丈夫だ」という感覚が、福祉の拡大を後押しした。対して、2023年度の社会保障関係費は約36.9兆円(財務省予算案)と、約15倍に跳ね上がっている。
止められなくなった構造:依存と政治の罠
ところが、一度始まった福祉政策は、簡単には後戻りできなかった。老人医療費無料化は国民に大歓迎され、年金増額も「当然の権利」として定着した。1973年のオイルショックで経済が揺らぎ始めても、福祉予算を削ることは政治的に不可能だった。なぜか?国民が「当たり前」と思うようになった権利を奪うのは、どの政治家にとっても自殺行為だからだ。田中の後を継いだ政権も、財政難の中で福祉を維持せざるを得ず、結果的に国債発行に頼る体質が加速した。医療費の伸びは特に顕著で、無料化導入前の1970年度に約1.3兆円だった国民医療費は、無料化直後の1975年度には約3.9兆円(厚生労働省データ)と3倍近くに急増。さらに2025年度には約60兆円に達すると予測されている(厚生労働省「社会保障費見通し」)。
さらに、福祉の拡大は国民の依存度も高めた。医療費が無料なら病院に行く回数が増えるのは自然な話で、実際、老人医療費は予想を上回るペースで膨張した。1970年代後半には、早くも「このままでは破綻する」という声が上がったが、政策の縮小は現実的な選択肢にならなかった。田中が蒔いた種は、良くも悪くも日本の社会保障を不可逆なものにしたのだ。
田中角栄の遺産をどう見るか
田中角栄の福祉強化は、国民生活を底上げした功績として評価される一方、財政の持続性を見誤った失敗とも言われる。だが、彼の政策は果たして「負の遺産」と断じていいのだろうか?田中は新潟の貧しい農家出身で、当時のエリートとは対極にある出自だった。しかし、今なお語り継がれるその「政治力」で、地方や庶民に報いた。当時の高齢者は、戦中は戦地に赴き、敗戦後は労働力として復興を支え、日本を経済大国に押し上げた現役世代そのものだった。彼らに報いたことを、50年後の視点から単純に「失策」と呼ぶのは難しい。1973年度の国民医療費は約1.8兆円(厚生労働省「国民医療費の推移」)と現在の約44.2兆円(2022年度、厚生労働省)に比べれば微々たるものだったが、当時の彼らにとっては、生活を支える大きな安心だったはずだ。
問題は、50年経った今なお、彼が描いた社会保障の基本設計がメンテナンスが不十分なまま放置されていることだろう。彼が掲げた「豊かな日本」は確かに実現したが、その代償として、後世代に重い負担を押し付ける形になった。2025年の今、少子高齢化が進み、社会保障費が国家予算の3分の1を超える日本で、田中の時代を振り返ると複雑な気持ちになる。1973年度の国家予算に占める社会保障費の割合は約14%だったが、2023年度には約33%(財務省「予算の概要」)に達し、2025年度には国民医療費が約60兆円に膨らむと予測されている(厚生労働省「社会保障費見通し」)。一度動き出した福祉の車輪は、今も止まらずに回り続けている。それを止めるか、あるいは別の道を探すか。それは田中の遺産を継いだ現代の我々に課された課題である。